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上野散策 中編 -日本を動かした一族の痕跡ー
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上野散策は、蓮の花だけしか考えてなかったのですが・・・





お誕生日という魔法が利いたのでしょうかね?

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今年のGWに、根津神社~六義園~旧古河庭園 と 二人で散策している最中。
リーフレットに、旧岩崎邸庭園ってのは、上野にあるの?え?何処??と頭の隅にあったのを引き出しからぴょっと出てきました。

と、考えてたら、蓮が終わる不忍の池の畔に、「旧岩崎邸庭園」の看板 ん?近いの?

じゃあ、行ってみましょ?

と軽~い気持ちで、グーグル先生を頼りに、辿ってみたら、道沿いの1本裏に、ひっそりと煉瓦と石積の壁に出会いました。

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小山のような、丘のような、 坂を上りひらけると、そこに建つ 岩崎邸の白い洋館

雰囲気的には、日本の城が建ち 坂が敵を追い払うための要塞のようにも思えた場所。

調べてみると、江戸時代には越後高田藩榊原家(現在の新潟県上越市高田)の中屋敷だったそうで、大名が持っていた中屋敷としては、このような立地条件は徳川家から果たして許されたのだろうか?と頭をひねるばかりですが、高田藩戦国時代は上杉家の領地。掘家が統治する時代は45万石。江戸時代の榊原家でも15万石。特別優遇があったのかもですね。


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明治時代初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸として使用され、岩崎弥太郎が買い取り、長男である岩崎久弥が引き継ぎ、此処に本邸として居を構えたのが現在の建物となるわけです。

岩崎弥太郎は、坂本竜馬が海援隊として土佐藩の外郭機関となった際、岩崎弥太郎が藩命を受け隊の経理を担当し、後に九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事 
つまり、三菱財閥の基を作った方であり、久弥は、岩崎(三菱)財閥の3代目となります(2代目は叔父にあたる岩崎弥之助 弥太郎の弟)

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現在の正門からこの白い洋館が見える手前にある、重要文化財の袖壁には、
三菱社章となる「スリーダイヤ」の元となる 岩崎家の三階菱紋の家紋が彫られています。
(岩崎家家紋 三階菱紋と 土佐藩主山内家の三葉柏紋を合わせ、スリーダイヤが作られました)


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弥太郎が買い取った当時は、大名屋敷8千坪、更に周囲の土地を買い足して1万5千坪の敷地とし、明治15年(1882年)に大規模な和風住宅を建てたといわれてます。

弥太郎が没し、家の当主となり男爵の爵位を受けた弥太郎が、迎賓館にできる本格的な洋館のある自宅に建て直すことにし、洋館は、ジョサイア・コンドルに設計を委ね、木造2階建の迎賓館を1896年に完成させます。


ジョサイア コンドルは、イギリス人設計家であり、実際の発音は コンダーの方が近いのですが、オランダ語の発音で一般的にはコンドル もしくは、コンデルと呼ばれていたようです。

コンドルの設計建物は、鹿鳴館、旧東京帝室博物館本館(東京国立博物館の前衛)、三菱一号館、旧古河虎之助邸、ニコライ堂 等々 現存しない建築物、そして、現存する建築物 何処かで聞いたことある、見たことあるという物ばかり。そのうちの一つがこの岩崎邸の洋館でした。


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英国王立建築家協会主催 ソーン賞を受賞後、本格的建築家の育成を急いでいた日本政府の目に留まることになり、 「お雇い外国人」として契約を結び、1877年(明治10年)来日。工部省営繕局顧問、工部大学校造家学(現 東京大学工学部)教師を勤め、のちに最初の本格的日本人建築家として活躍する辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵らを育てていきます。

1883年(明治16年)留学を終えた辰野金吾が英国から帰国すると、政府の方針で教授の席を辰野に譲り、官職を退きます。

心血を注いだ鹿鳴館が不評ということもあり、一旦は帰国するものの、岩崎弥之助に呼ばれ、三菱財閥の建築顧問として迎えられ、岩崎彌之助深川別邸、岩崎久彌茅町本邸(旧岩崎邸)、岩崎彌之助高輪別邸など岩崎家の邸宅を手掛けるほか、岩崎弥之助家廟までも設計、そして、三菱一号館、三菱二号館、三号館、東京倶楽部など、多くのビルも設計していきました。

お雇い外国人、コンドルが岩崎、三菱関連の建築物が多いのかという謎がこれで解けました。

三菱財閥の建築顧問として迎えられてはいるものの、個人の建築事務所を開設しているので、並行してニコライ堂、三井倶楽部(三井家倶楽部)、旧古河庭園(古河虎之助邸)等など、岩崎家としてはライバルの三井、古河財閥の建築物も設計していきます。

コンドルは来日前から日本文化に関心が高く(黒船来航以来、日本工芸品が欧州へ渡ることによって、またパリ、ロンドン万博のジャポニズムムーブメントの影響はコンドル自身にも届いている故に、来日する関心度が上がったのでしょう。)ミーハー的にではなく、実際日本画を河鍋暁斎に師事し、暁英の号を受け、日本文化を愛し、華道や日本庭園などを紹介する多くの著書を英国等で出版しており、後に日本舞踊を教えに来ていた前波くめを妻としています。

彼は、歴史主義建築として、当時流行った、ビィクトリアン・ゴシック、クィーン・アン調を基にすることが多いのですが、この岩崎邸は重厚さの中にもちょっと違う雰囲気



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外装の眺めと云い、この1Fと2Fのベランダに降り立つ(ベランダの床の保護のため、出ることはできませんので際まで・・・でも、結構皆出てたなぁいいのかなぁと考えつつ)と ちょっと フラッシュバック

グラバー園内の旧三菱第2ドックハウス 

久弥ではなく、2代目弥之助がグラバーと交友があり、三菱の相談役として招いていたこともあってか?
(それで、キリンビールの創立関係者となるわけですか。お二人さん。別なカテゴリー面で納得)

それとも、単にグラバー邸等の長崎の外国人居住地に多く用いられた、、周囲にベランダを廻らせた西洋館が典型的なもので、元々アジアの植民地で強い日差しを避け、通風をよくするために用いられた形式の
コロニアル調として、気候に合わせて用いたのか?

どちらにしても、広い芝生が拡がる前に、見渡せるベランダ。
屋内でも、屋外でもパーティや舞踏会(ball)を行うには、非常に効果的なデザインです。

実際、屋内に踏み入れてみると、空調管理されているかと思いきや、全て扇風機で風を送るのみで、窓は開放されるだけ。それでも、風通しが良く、暑いという感覚はなかったです(「屋内に入る前に水分補給を」と入り口前に注意書きあり。屋内、飲食禁止。そして、ちょっと前までは撮影OKだったのが、現在はNGです)


外装(エントランスのアップ等)、袖壁の家紋のモチーフ等々は、この全体の様式とされているジャコビアン様式:17世紀 ジェームス1世(蘇名 ジェームス6世 悲劇のスコットランド女王メアリー の息子で、初のイングランドとスコットランド、アイルランドの王となる人物)から取られたヘブライ語形「ヤコブ(Jacob)から派性(余談として、約50年後のJacobite は、ジェームズのラテン名(Jacobus) ということは、ヘブライ語~ラテン語って事も考えられるねっとw) 北米大陸に最初のイギリス植民地が建設されたのもこの時代とあって、支配的な建築、視覚芸術、装飾芸術、文学のスタイルに「Jacobean」という語が付けられるらしいのですが、重厚的なという印象かな?と。 建築学の事は、学んでないので良くその違いが分からずw



1Fは、玄関、メインホール、書斎、大食堂、客室、婦人客室、キッチン 

2Fには、ホール、集会室、客室2室、婦人客室、

地下(非公開)には倉庫、機械室、庭の撞球室への通路  の 木造2階建て煉瓦造地下室

実質の生活の場としての利用ではなく、外国人や賓客を招きパーティを開いたり、滞在するための宿泊施設、もしくは、親しい人々や商談でのクラブハウス的な役割も伴った、迎賓の場

土佐藩の地下浪人の長男として生まれた父弥太郎が気付いた三菱紹介。岩崎家として明治政府への貢献が認められ、息子の代で男爵という爵位を授かったのは、出世も大出世。慶応義塾卒業後、ペンシルバニア大に留学していた久弥。西洋のおもてなしをも得てきたからこそ、この洋館の建築を願ったのであろうと思います。当時30歳弱。かなりの切れ者ですw


屋内に入ると、これまた南国(コロニアル/植民地での外国人居留地風)とは異なり、重厚なオークに覆われた内装。エントランスからのホールにつながる空間は、重厚なウッディさに、スコットランドの城内を思い出させてくれました。色から出される空気感は、欧州そのままなのですが、内装のモチーフやデザインがなにやら違うのです。
繊細さと華麗さをそなえた蔓草模様を主としたモチーフ、これがジャコビアン様式の特徴らしいのです。そして、ホールに歩みを進めると、3段に折れる階段が光溢れる大きな窓をバックに、目に飛び込んできます。客人達が賑やかにエントランスから入ってくると、当主がこの折れ階段から後光を背負ったかのように降りてくる姿それは、当主としての威厳を示す大切な空間としても必要であったホールであったかと。全てコンドルが理解し計算し設計していたのでしょう。


大食堂は、映写室となり、当時のしつらえの様子は拝めず、残念。

不思議な空間と思わせてくれたのが、婦人客室 というよりも、婦人たちの為のサロンですね。
壁側には、アラビック風の多弁アーチのアルコーブが4隅、暖炉にも多弁アーチが施されています。
天井には、女性らしい日本刺繍を施した目を見張る天井が施されています。

なんとなく、違和感。なんだか、千夜一夜のような、女性を囲むハーレムの部屋のようにも思えてきましたが・・・ 色々説があるようで、ひとつの解釈として、英国では当時、喫煙室をイスラム(アラビック)風につくるのが流行していたとのこと。建物も当初喫煙室として計画されていたのではないかということ。 喫煙室=倶楽部なわけで、男性のクラブとして英国では、煙草は不可欠。そして、様々な情報交換と政治関連のやりとりの場として使われていました。(今もそうですかな?)実質煙草は南米が原産ですが、欧州にはトルコやエジプトなどのイスラム文化圏からだったため、タバコ=イスラムというイメージができたと考えられるのです。私には、トルコ、エジプトのイスラム文化圏は水煙草のの空気満載で、やはりハーレムをイメージしてしまいますw
(欧州のアジアの観念は、トルコから東は全てアジアになるわけで、極東のアジアが日本になるわけで、シルクロードなわけではないけれど、中国等々飛んで、トルコのようなアラビックというのも日本人としては違和感アリなわけです)

急遽、なんらかの理由が有り、婦人客室として変更され、あの刺繍が施された天井が設置されたと云う説もなんとなくわかる気もします。

岩崎家は武家の生まれと云う事もあり、「男子は自力で生きていかざるを得ないため厳しく教育する。そして社会を登って行け。女子は誰と結婚するかわからないから贅沢を経験させる。貧しい暮らしをすることになっても、贅沢とはどの程度のいものか知っていれば対処できる。」というような教育論があったようで、女性にには最上の優しさをという lady first に近い考えがあったかもとも勝手に想像w

この婦人客室の先には、コンドルが設計していない、増設したサンルームに繋がっています。ビクトリア時代の女性がこうして陽のあたる場で刺繍をしたりしていた画が想像出来てしまうのですが、そんなイメージとして造られた空間なのかもですね。


先ほどの3段折れ階段を上っていくと、ホールを中心に客室と婦人客室がベランダに面して、設置されています。婦人客室が、全体的にピンクを基調としてデザインされているがとても愛らしく、泊った女性たちはさぞ嬉しかったことでしょうね。この部屋で食事に出るまでに、イブニングドレスに着替えて化粧して。ワクワクしてくるのが伝わってきます。

各々の壁紙に注目したいところ。金唐革紙と呼ばれる手法による壁紙
元々は金唐革という、なめし皮に金属箔を貼って彩色したもので、ヨーロッパの王侯貴族の邸宅に使われていた豪華な壁装材なのですが、皮自体が手に入りにくい当時の日本。和紙と漆の技術を使うことにより、本物の金唐皮と見間違えるほどの品を作ることに成功し、欧州でももてはやされ、当時の貴重な輸出品となったようです。 イギリスでは、ウィリアム モリスが、植物の模様の壁紙やステンドグラスなどの生産により、アーツ&クラフト運動を起こしていたこともあり、日本人の職人技術を芸術として捉えられていたかもしれません。

徐々にこの金唐皮紙の壁紙も、機械による大量生産の圧力には勝てずに、消失していくのですが、1985年、旧日本郵船小樽支店に復元事業で金唐革紙製作方法の研究を依頼を受け、東京藝術大学日本画専攻在学中の学生であった、後藤仁と山田和広を中心に研究を進め、1999年に移情閣〔孫文記念館〕、2002年に旧岩崎家住宅に復元が実現したのが現在北と南客室に設えてある壁紙だそうです。
北客室は、薄いグリーンに銀の施し、南客室には、ターコイズブルーを思わせる色に金。
きらびやかで、貴族とはいえ個人宅の壁紙には思えません。王室ぐらいに設えるのがふさわしいのではないかと思わさせます。

復元した壁紙の手前に、私たちが触ってこの凹凸の質感を確認できるように展示されています。
皮を彫ったような感触に思わず納得

現在、この金唐皮紙の技術を現役で製作可能なのは後藤仁氏だけになってしまっているようで。
普及活動、技術伝授を積極的に行って頂ければと願うばかりです。


この洋館にもうひとつ不思議に思うことは、客室はあるのに、当主と当主家族の寝室がないこと

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隣接する、和館に生活の場を置いていました。
現存するのは1棟4室だけですが、完成当時は建坪550坪20棟あり、現在見学することのできる広間の奥には、南に当主と夫人の部屋、子供室などが置かれ、北には使用人部屋、台所、事務方詰所、倉庫などがあったそうです。

当時 従業員は50名程おり、当主 久弥家族の身の回りの世話、邸の手入れ、迎賓への従業事に走り回っていたのでしょう。


明治20年の年収高額所得者リストなるものが調べていて出てきましたが、

岩崎久弥は 堂々の1位  約70万円  

ライバルとして見られていた、渋沢栄一が 約9万7千円  住友財閥の住友吉左衛門が 約7万7千円

国家予算が、8816万円 久弥は 国家予算の1% を越えているわけですから、
これだけの従業員が雇われていたとしても不思議がないことなのでしょう。


ちなみに関東大震災の時は、本邸も含めて地元の住民に開放され、1万人ぐらいが避難していたようです。
(ちなみに、不忍の池を挟んだ、コンドル設計の 帝室博物館(現:東京国立博物館)は、大破してしまったようです。)

戦時中、三菱財閥はご存じの通り軍需産業にも携わっていますが、
岩崎家自身と云うと 昭和19年(1944)3人の息子達も召集され、疎開先の大磯の別荘が日本陸軍に接収され、久弥は軍への金品供出の際は潔く渡し、そして岩崎本家の家長として東京に留まっていたようです。

昭和20年(1945)1月海軍の軍司令部に入っていた三男の晃が20歳で戦死。終戦により、特攻隊(!)の次男と学徒出陣で召集された長男も戻って来れたようです。
平和を愛していた久弥だが、戦犯としてアメリカ進駐軍(GHQ)に全財産を没収されることになり、巣鴨プリズンで罪を裁かれもせず理由のない差押えに先祖に申し訳が立たないと苦笑したとか。

この茅町本邸はG2(GHQ参謀第2部)のキャノン機関(秘密諜報機関)本部となり(私の好きな白洲次郎もキャノン機関に終戦連絡事務局次長として関与してたとか。昭和24年の下山事件もキャノン機関が関与したとかしないとか)、岩崎家は和館の一角を間借りして暮していました。(久弥の娘美喜と結婚した元外務次官:沢田康三の関係もあるので、なんだか人質に取られたような気がしてなりません)

後に司法研修所庁舎建設のために、和館の大部分を撤去。湯島ハイタウン、池之端文化センター等の建設により敷地が現在の約1/3に縮小されることになります。

財閥解体により、三菱財閥も細分化され、力を失うことになりますが、
幕末からの僅か数十年で西洋文化を吸収し、世界と並ぶまで上り詰める日本を支えてきた財閥の一つです。
岩崎家の国の再建への情熱と努力は、当時の情勢の問題はありますが、今失われている物でもあり、見習いたい部分が沢山あります。

彼らの心根は、嫁いだ久弥の娘 美喜にも引き継がれ、沢田家がクリスチャンの為改宗していますが、クリスチャンの慈善的な精神をそのまま彼女の血が騒がせたのか、大磯の別荘が財産税の代わりに物納されており、政府に掛け合い、自分の財産を全て換金し、さらに借金や寄付により400万円で買戻し、戦後増加した混血児の為の孤児院「エリザベス・サンダース・ホーム」を創立します。


混血孤児への世間の視線は冷たく、美喜は学齢期に達したホームの子どもたちの心を社会から守り、人としてのプライドを持たせようと敷地内に聖ステパノ学園という学校を設立します。
日本より偏見の少ない米国への養子縁組をすすめ、500人以上を送り出します。

ブラジルに聖ステパノ農場を設立。孤児院の卒園生が数多く移住いきます。
(この件については、ドキュメンタリーでTV番組で観た記憶がありました)


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そんなドラマのような歴史があった建造物たちですが、今は静かに静かに上野を見つめています。

和室へ移るときらびやかな洋館と異なり、岩崎家の実直的で簡素な暮らしの中で、何もない贅沢を感じるような静けさを感じることができました。ゆったりした空気が流れる中に、実はお茶席が在ります。暑かった酷暑日でしたので、涼を取りに 宇治金時をば。 何十年ぶりになるかもです。かき氷。普段、氷物は身体の中を冷やし切ってしまい、内臓の動きをおさえてしまうため避けてきました。今年はアイス1個も食べられなくなって、人とシェアするぐらい。というわけで、冷え切ってしまいましたがwww この情緒溢れる雰囲気に頼まずには居られませんでした。

ただ、残念なのが・・・
ガイドさんが常時何人かいらして丁寧に説明をしてくださるのですが、此処茶席にも大きな声でガイドしてくださることorz  ゆったりと静を愉しむ場であるので、ちょっとは控えて頂きたいのです。次回訪れる際には、改善出来ている事を願うばかりです。


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冷え切った身体を温めるために、広い広い芝生の庭を散策。
かつて在った、日本庭園の痕跡が寂しく残っているのが心痛い部分でもありますが、
芝生の上をサクサクと踏み絞められるのは、なんだかイギリスの公園や庭を思い出させてくれる感覚です。
庭園での茶会や屋外パーティ等行われたのでしょうかね? 此処で礼装した紳士淑女たちが、踊れたらと想像すると嬉しくなります。

この旧岩崎邸を利用して、様々なイベントが行われるようで
一番の近日では・・・

9月13、14、15、20、21日に「午後のミニコンサート」が開かれます。
各日午後1時、午後3時半から約30分。
東京芸術大の卒業生らによるバイオリン、ピアノ、尺八などの演奏が披露され、立ち見での鑑賞になり、普段着で聴けます。荒天時は室内で開催するため先着100人。無料(入園料別途必要)



この充実した母の誕生日、あくまでもこれは前半の出来事でした。
長くなりますが、続きます


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